リーファトロジーの哲学 / Philosophy of Lifatology

美しき曲々の和訳、遺書としての。時に考察

あるイタリア人と、労働への自己矛盾について

自己療養=自己破壊的な文章⑧


 2019年の秋、僕は英国で一人のイタリア人と友人になった。出会ったのはウェルカム・ウィーク直後、社会学の基礎についての初回のチュートリアルだった。彼は少しのイタリア語のなまりとともに、しかし堅実で明瞭な表現でもって、教師からの質問に雄弁に答えていった。どちらから声をかけるでもなく、授業の後に図書館のカラフルな空きスペースで、初対面特有の少しのぎこちなさと共に、お互いの国について話し合った。彼は大変親切な人で、不完全な僕の英語に苛立つこともなく、遠い極東の国について思いを馳せているように見えた。そして、僕も未だ訪れたことのない、ローマやフィレンツェの街並みを思い浮かべた。


 結局僕らは半年しかマンチェスターに滞在しなかったが、毎週月曜日と木曜日(だったかな?)、授業があるたびに課題や他愛もないことについて話し合った。聞くところ、彼はミラノ出身だった。政治学を専攻していて、当時は故郷の大学の卒業間際で、僕が授業の課題のみにあくせくしている中、いわゆる卒業論文を執筆しようとしていた。彼は純粋に信条的な理由でベジタリアンだった。一緒にアジアン・スーパーマーケットに行けば嬉しそうに豆腐を買っていた。マンチェスターにはイタリアからガール・フレンドを連れてきていて、彼女に高卒資格を取らせるべく、大学から少し離れたファロー・フィールドのフラットに同居していた。フランス語も話せた。つまり当時、精神的にあまりにも不安定だった僕にとって、彼はたいそう「立派な」人だった。だから、話していて、「どうして僕とつるむ必要があるのだろう?」と正直気後れする場面もあった。ただ、どういうわけか矮小な日本人と寛大なイタリア人の関係は上手くいき、僕らは互いの言葉を一言も無下にすることなく、共に言葉を積み重ねていった。僕らは勉強の合間によく、図書館の前で煙草を一緒に吸った。英国の11月の寒さに震えながら互いのZippoを交わし合っていたあの頃が恋しい。


 最後に彼に会ったのは、あのウイルスが英国にも「食指を伸ばし」初め、僕が彼よりも早く日本に帰国することになった時だった。僕らは夜中の8時かそこらに、彼の家の近くのパブに集まり、パイントグラスで何杯か互いにビールを飲んだ。そこで、彼のガール・フレンドにも初めて会った。もう彼女の名前は思い出せないけど、確かスコットランドにルーツがあり、スコティッシュ・アクセントで雄弁にジェンダー問題について語る、自立した女性だった。パブで飲んだ後、ケバブ屋でチップスか何かを買い、彼の(いかにも英国風で、廊下や階段にカーペットが敷かれているような)フラットにお邪魔し、1時間かそこら話をした。僕は彼らにこれまでの御礼として、日本から持参していたピースとアメリカン・スピリットを2箱ずつかそこら渡した。最後には、2人は親切に僕をバス停まで見送ってくれた(いや、パンク音楽が好きそうな、彼女の友人も一緒に居たんだったかな…?)。いつものように雨が降る中、彼らはバスが去るまで、僕に手を振ってくれていた。

 

 2020年4月、新神戸の新幹線駅から南を見ると、小綺麗に舗装された川は三宮を突き抜け、瀬戸内海まで一本の線となって走っていた。川の両端の公園には薄紅の桜が咲き始め、町に新たな期待が満ちようとしていた。

 

 帰国後、僕らは何度かメールでやり取りをした。夏が来た頃、僕は彼の連絡に返信をしなくなった。もちろん、彼は僕の最も大事な友人であり続けた。ただ、僕自身、自分の人生の先行きがあまりにも見えなくなる中で、今後誰にも頼るまいと決意を必死で固めようとしていた。二三回メールを無視すると、彼から連絡は来なくなった。悪いことをしたと思った時には、謝罪なしではメールを送れないほどに時は過ぎていた。そして、僕はどうにも謝罪をする度胸や誠意を持つことができなかった。そのまま、2年が経ってしまった。その間に僕は故郷の神戸から東京に移り、決してなりたくはないと願っていた「社会人」(あるいは労働者)になった。

 

 今年の7月、彼から連絡があった。内容は、問題がなければ一度近況を教えてほしいというものだった。僕はこの2年間何があったかを書き、彼にできる限りの誠意をもって謝罪した。2年という年月はあまりにも重く、メールを書くのに何日もかかった。3週間ほどすると、彼から返信があった。


 その返信はあまりにも痛々しいものだった。曰く、

 

 「返信をしなかったことは謝罪しなくても大丈夫。僕自身も、この2年間はずっと鬱状態にあった。おそらく、人生に目標が著しく欠けていて、孤独だからだろう。僕はスコットランドに移住し、君が以前マンチェスターであった彼女と別れ、環境科学で修士号を取り、今、スコットランド政府の『ゼロ排出戦略部』で働いている。けど、それでも幸せだとは思わない。望んだことに取り組んでいて、好きなことをしていても。」

 

 彼はメールの最後の方で、僕らがマンチェスターで共に学んだマルクス疎外論に触れた。結局、僕らをマンチェスターで繋ぎ合わせたのは(そして、今もそうしようとするのは)、現在の文明が必然的に孕む暴力や格差への契機、これに対するナイーブさだったんだろう。ただ、僕らが今毎日のように取り組みその中で燃え尽きてしまう労働は、僕らの創造力や良心を奪い、何が大切だったのかわからなくさせてしまう。きっと、僕らは何千キロも離れていながら、全く同じ過ちを何度も何度も繰り返し続けている。フォークでスープは飲めない。つまり、そういうことだ。


 僕は今、彼を慈しまずにはいられない。彼と共に煙草を吸い、この世界の歪さについて幾ばくかを語ることができたらどれだけ自由になれるだろう? 消費や奢侈が立派なライフスタイルとなったこの世界からしばし離れ、正義や美を共に思い描くことができたらどれだけ気ままになれるだろう?


 そして、彼への慈しみはある種の自己懐疑となって、僕自身に立ち戻る。果たして、この5カ月弱のいわゆる「新入社員」としての生活には何の価値があったのだろうか? 日本でも有名な金融機関の、かなり上流の部署に配属になった。悪くない処遇だ。ただ、僕は、男性らしさへの同調の圧力にも、あくまで労働への生気を養うために行う余暇にも、単なるコミュニケーションの道具に格下げされてしまった言葉にも、現実を超越することのない陳腐な「イノベーション」にも、どうも心を寄り添わせることができないでいる。労働に身を浸せば浸すほど、思考のしなやかさは失われ、正解らしい何かを探し求めるようになっている。しまいには最近はずっと、金を稼ぐことばかり考えている。だが、何のために? 僕は一方で、キャリアアップのための資格取得に勤しみ、俗世的な成功を収めることのできない人々を心の底で笑っている。他方で、現世的な価値観には順応しまいと弁証法的な意味での否定を実践しようとし、先ほどとは真逆の人々を毛嫌いしている。身勝手な自己矛盾だ。

 

 僕は彼への謝罪の中で、自身を「wanker(クソ野郎)」と称した。そして、彼はそのような卑下をするなと僕を許そうとしてくれた。ただ、僕はこの自称に何ら間違ったところはないと思う。僕は英国から帰国し、大学院進学と就職を迷った2年前からずっと、プロレタリアート的思考とブルジョア的思考の狭間に立ち、どちらも選びきれず、勝手に引き裂かれバラバラになろうとしている。そして何も決めきれず右往左往している間にも、時の砂は静かに流れ、大好きだった音楽も、古い思い出も、この肉体も、忘却の彼方へと押し流されてしまうのだ。


  I'm so sorry I have written about you without begging you for a permisson (I mean, if you should ever read this article written in Japanese). 


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