リーファトロジーの哲学 / Philosophy of Lifatology

美しき曲々の和訳、遺書としての。時に考察

Unwelcomed Farewell: Part 1

言葉を纏え(4/ )


 三宮の改札でさよならしてから、俺の人生はずっと下り坂だった。あの日にもらった緑茶のティーバッグ、向こうは空気がものすごく乾燥してるから、喉が痛くなるたびに世話になった。もうお礼を言う機会なんてないだろうから、この場で感謝させてほしい。ありがとう。英国での暮らしは最悪だったよ。飯はまずいし、雨は降り続けた。出発の半年前の春、俺が家族や教員と揉めた時、やっぱり日本に留まればよかった。色々と理屈をこねくり回していたと思うけど、本音を言うとあなたと一緒に居たいだけだった。そんな風に正直に言えばよかったね。


 もう四年も前になる。あなたと一緒にいた時だけが唯一、俺がまともでいられた期間だった。初めて立ち飲み屋に二人で行った時、仕事外で初めて話した。思っていたよりもずっと快活で、竹を割ったような性格だったから驚いた。三宮の酒屋でマスカットのリキュールを教えてくれた。梅田に退屈な映画を見に行った。昼から大学に行くためにテニスコート横の坂を上った時、海沿いに見える貨物クレーンがキリンみたいだって話して笑った。くだらないことのお礼に立派なボールペンをくれた。酒を飲みすぎた時は介抱しあった。バイト先で俺がトラブルを起こして居残らなきゃいけなかった時、関係ないことだったのに待っててくれた。三が日に引いたおみくじは、お互いパッとしない運勢だった。あなたの誕生日には、京都でちょっと高級な焼肉を食べた。酒に酔ったとか口実をつくってたくさん電話した。思い出すときりがないけど、どこを切り取ってもあなたは綺麗だった。


 正直に言うと、俺はずっと、いわゆる「当たり前の日常」に憧れていたんだと思う。当たり前のように好きな人と、感謝し合ったり、甘え合ったり、尊敬し合ったりしたかったんだと思う。これ以上、「優秀で手のかからない次男」であり続けたくなかった。足りないものを補おうと苦労し続けたくなかった。俺の内実を知った上で俺を嫌わない人はほとんどいない。だから、ずっと気にかけてくれて、一緒にいてくれて、俺はほとんど初めて生きてて良かったと思えた。許された気分になった。本当にありがとう。


 問題は、肝心の俺が、俺自身が幸せになる様をどうしても許せなかったことにある。ASDと診断されたと打ち明けた時、あなたは本当にそんなこと気にしてなかったんだろうね。けど、俺はあなたの言葉をどうしても信じることができなかった。隙あらば俺を見捨てるんだろうと思った。そして、実際、最後にはそうしてくれた。別れ際に煙草を吸い始めたと伝えたのはわざとだった。寛容なあなたが大嫌いと言うんだから、一番神経を逆なでするだろうと思った。がっかりした表情。振り返らずにホームへ歩いて行ったとき、俺は全部終わったと思って安心した。


 ただ、きっとそんなことするべきじゃなかったんだと思う。そこからはずっと、幻肢痛みたいに、あなたの亡霊に惑わされるだけだった。もう連絡先もしらないのに、いつか電話が鳴るんじゃないかと思った。夢に見た朝には世界がひっくり返って見えた。孤独を感じる時には、あなたが軽率な男に抱かれて、恍惚の表情を浮かべる様が嫌でも目に浮かんだ。今も、何日もかけてこの文章を書いていて涙が止まらない。ねぇ、俺は今東京で働いてるんだ。いつか会えたら恥ずかしくないようにって、一杯頑張って良い会社に入ったんだ。けど、もう全部手遅れだよな。


 結局、俺はあなたの好意に報いることは一度だってできなかった。俺はずっと、あなたが振る舞う「寛容で聞き上手」という女性性を搾取してばかりだった。口ではずっと、平等を願う善人を気取っていたのにね。それならせめて、俺は俺自身が男であることを受け入れて、正しい見栄や正しい性欲を身に付ける努力をするべきだった。原因論と責任論は違うと気づいたのは、英国で独りぼっちになってからだった。今も、こんな風にして書くことで、俺は俺を慰めようとしている。言い逃れしようとしている。やっぱり、俺はあなたの若くて魅力的な時期を食い散らかすはめにならなくてよかったのかもしれない。


 あまり言いたくないけど、実はここ数年、何人かの女性に俺はあなたの影を求めた。けど、結局全部同じ結末を迎えた。最後にはどういうわけか、俺自身が全部滅茶苦茶にしてしまうんだね。思うに、俺はそんな、終わりの無い自己懐疑を死ぬまで捨てられないんだと思う。なぜなら、それこそが俺に、社会的には見栄えの良い人生を歩ませる原動力になってきたから。一人で生きるには、常に自分を破壊し続けて、組み立て続けるしかない。そしてあなたと出会った時、俺は既に、あまりにも長く一人でいすぎたんだと思う。勇気を出して全部投げ捨てれたら、今頃のんきに関西で暮らせてたのかな。どうしても変われないから、俺はもうやめにしようと思う。最後まで自分勝手でごめんなさい。


 あなたは聡明で真面目だから、予定通り今年の春で大学院を出て、関西で就職するんだろう。どこに行っても仕事をうまくこなし、俺に昔語ったような温かい家庭を築き、日常の些細なことに喜びを見出し、誰かと共に少しずつ老いていくあなたの姿は、いつまでたっても美しいままなんだと思う。心から、幸せでいてほしい。

 

 そんな姿を見れなくて、本当によかった。


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