リーファトロジーの哲学 / Philosophy of Lifatology

美しき曲々の和訳、遺書としての。時に考察

「物語」というメタファーについて

自己療養=破壊的な文章②


 肝心なことは往々にして、メタファーでしか言い表せない。あるいは、僕らは、何事も言語でもって一次的に表現することができると慢心しているのかもしれない。ちょうど「全てを数学で表現することができる」と主張する無知な科学主義者達のように、言語の信奉者は自らが確実に表現できる世界に心理的安心感を見出し、言語を万能なものとして物象化しているに過ぎない。正確な言葉は何かを表現するための十分条件に過ぎないのであって、実際には音楽も、絵画も、言語を用いた比喩も、同様の効果を持つことができるというわけだ。もちろん、これは表現の目的にもよる。客観性が求められる学術的分野において、より解釈が多義的なメタファーが原則として避けられるべきとされるのは理解できる(とはいえ人文社会科学における高度に抽象的な文献はメタファーに溢れているが)。ならば、問題はその目的合理的思考法を、社会生活のあらゆる側面に拡充し、実生活においてもメタファーが無駄に誌的・情緒的で故に非合理的とされることにあるのかもしれない。
 いずれにせよ、僕はここで「物語」について語りたいと思う。それはメタファーだ。しかし、未だ僕の中で適切な適用範囲の定まらないカテゴリーだ。それにも関わらず、僕が無意識に物語という言葉を僕が近く認識する何かの表現のために選んだのならば、両者には何らかの概念的共通点があるに違いない。書くことは考えることだ、と過去に大学の教授が言っていた。自身が学び取れる何かが、この(不自然に)真っ白なスクリーンに描き出されればうれしい。
 発端は、昨年の4月に長期留学から帰国した時のことだった。僕はコロナウイルスの蔓延で途中帰国するまで、結局6カ月間、英国北部のマンチェスターに滞在していた。率直に言って、それは不快極まりない経験だった。その不快さの本質は、長年僕の人生を滅茶苦茶にしてきた、背筋の凍るような深い孤独感にあった。僕は自身が位置付けられていた諸々のコミュニティ(日本、日本での大学、アルバイト先、古くからの友人…)から物理的に、故に精神的に切り離された。食事は単に栄養を取るための機能に還元され、ベッドは固く腰が痛んだ。外を見るといつも雨が降っていた。それでもマシだと思い外に出ると、空気はひどく冷たく乾燥していた。コンクリートがところどころ砕けた道は素っ気なく、夜には街灯の少なさから、あちこちの闇がとてつもない悪意を体現しているように思えた。(もちろん僕にとって)英国に心が寄り添えるところなど、僕は見つけることはできなかった。そう、その意味でそれは退屈な街だった。そして、その退屈から共に助け合い抜け出すことのできるような友人も、僕にはあまりにも少なかった。これには2つの原因がある。一つに、言語・人種の壁は、外国での暮らしを経験したことのない者が想像する何倍も、深刻なものであるということ。相手に言いたいことを伝えることができるとか、そんな機能的な話ではない。コミュニケーションに本来見いだされるような、(後述の)「物語」性がほとんど欠如せざるを得ないという意味でだ。二つに、より重要なことに、怠惰さ・ナイーブさ・内向性といった、僕の個人的な性向だ。
 いずれにせよ、僕は精神的にまともな状況にはなかったと思う。友人と電話する度に「言い訳」し続け、当時の恋人にも愛想をつかされた。彼女に当たり散らしていたから。夕方の6時に目を覚まし、深夜までベッドで天井を見つめ、虚栄心を満たすために大学の課題に適当に取り組み、朝の10時に寝るような生活をしていた。授業にも半分ぐらい出席しなかった。最終的に、帰国する直前に主要な連絡先を全て消してしまった。自分自身が存在が存在する感覚が希薄になる中で、①自身は不要だと思い、②しかし同時に、助けてくれない彼らに一方的に不信感を覚え、③そのように懐疑する自身はやはり不要だと思ったから。ほんの10人弱の人間としか連絡を取れない状態になって、僕は帰国した。パリを経由し、関西国際空港に着いた。本当に久しぶりに青空を見ながら、神戸へと帰るシャトルバスに乗った時、僕は心底安心した。
 けれども、行く先は僕にはどんどん悪くなっていくように思えた。そこで、「物語は失われてしまった」ことに気づいた。そして、1年間の就職活動を終え、それなりの会社に内々定を頂き、卒業論文の執筆も順調な今でさえ、僕は物語の中にいない。物語とは何か?その特徴は、以下だと思う(頭に浮かんだ順番に)。

 

 ①物語とは現象学的なカテゴリーである: 何かを物語的と見なすか否かは、決してその客観的性質から判断されるものではない。それは、日常の生活世界において個々の事物ないしはその統合としての生活世界そのものに、何らかの「意味」を見出すことによって物語となる。当然、この定義はトートロジカルである(物語と見なしたものが物語だ)。とはいえ、次はその認識の諸条件を明らかにすればいいので、少なくとも分析の対象はより明確にはなっていると思う。
 ②物語とは「位置づけられる」ことである: 「意味」は、本来「偶然」である諸選択肢の一つが、あたかも「必然」として「位置づけられる」ことによって生じる。これは意味という語が言語に用いられることが多いこととも対応して、言語とのアナロジーの元に考えてみることが好ましいと思う。言語において、文の意味は単語の組み合わせによって生じる。その際、選ばれ得る語の次元をパラディグマティック(例えば、I like の後にはdogsやcatsやpeopleが来る)、文の貫きの次元をシンタグマティックと、言語学では言うらしい(例えば、I like dogsは一つの連なりを持つ)。文の意味は、パラディグマティックな語の可能性から、特定の物が恣意的に選ばれ、一つのシンタックスを形成することに起因する。そこでは、「あらゆる語が選ばれ得た」という発話前の沈黙における「偶然」が、「この語を選ぶ理由があった」という「必然」によって代替されている。その際、選ばれた語たちはそれぞれに対して「位置付け」られ、一つの有機体を構成するように思われる。
 この言語の一側面を現象学的な意味での生活世界に適応してみると、僕が言うところの「物語の喪失」は以下のように言い表すことができる。つまり、僕は自分自身がこの世に存在する「必然性」を何ら感じることができない。出会う人々も、口にする食事も、耳にする音楽も、歩く道も、ほとんどが自分自身との関連を一切欠いている。その意味で「無意味」に見える。僕は常にパラディグマティックに代替可能な存在として自分自身を認知する。その意味で僕は、どこにも「位置づけ」られておらず、「孤独」に思える。
 ③物語は「継続性」を必要とする: ここでの継続性は、やはり現象学的である。つまり、事物に継続性を見出すことによって、それは「活き活きとした形で」その存在を明らかにする。この継続性は様々な次元に見出されるもののように思える。場所、自身の肉体、天気、交友関係、言語…。そして、これらの継続性はほとんどの人が、あまり意識することすらない、あらゆる存在の開示の前提であるように思える。「そこにずっと存在してくれる安心感」。「日常が突然瓦解してしまうような不安」。日常的な語法にも、この継続性の前提は存在している。僕の場合、これは明らかに上に欠いた英国での経験によって引きちぎられてしまった。物語は脈絡もなく、突然数ページちぎり取られたりしない。そうされれば、もはや物語の意味を理解することは難しくなってしまう。僕が物語という語を用いるのは、こうした共通性があるからだろうか?
 ④物語は「まともな」人間生活には必須である: だから人は宗教を生み出したんだろう?


 上の4つが物語の説明に用いられたことには理由があるかもしれない。つまり、自身の生活世界の理解は、それが実存的な物である限り、現象学的になるきらいがあること(①・④)。そして、それは通時的・経時的に網羅される必要があること(②・③)。
ここまで書いて、僕はなおさら自分が何を物語と呼んでいるのかわからなくなった。結局、書きながら滅茶苦茶にしたんじゃないか?そもそも、こんなのは精神異常者の妄想なんだろうか?あぁ、きっとそうだろう。


 

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