リーファトロジーの哲学 / Philosophy of Lifatology

美しき曲々の和訳、遺書としての。時に考察

大学には「ゴメス」という猫がいた。僕は彼女を「ロンドン」と呼んだ。

メモ②


 大学には1匹の猫が住んでいた。茶トラだった。性別に忠実に、ここではその猫を「彼女」と呼ぼう。オーケストラ部が練習をする会館の脇、段ボールと傘と机で誰かが親切に建てた「城」に彼女はいた。日中はしなしなになった段ボールの上で眠るか、雨風に晒されささくれだった木のベンチの上で気持ちよさそうに眠る。そんな姿が愛らしく、多くの学生が授業の合間に彼女のもとを訪れ、彼女の気を惹こうと試みた。他方で、彼女はある時は訪れた学生の膝の上に乗り、ある時は迷惑そうな顔をしてベンチから茂みの奥に消えてしまった。そんな猫らしい気ままさがまた人を呼び、彼女はいつだって人気者だった。彼女はどういうわけか「ゴメス」と呼ばれていた。


 誰もが猫には、自分勝手に理想を投影するものだ。そして、僕も(こんな記事を書いているんだから)その内の一人だった。2021年の秋頃、6カ月後の卒業を控え、僕は毎日学校の図書館に通い、技術哲学に関する卒業論文を執筆しようとしていた。大学は駅から20分程度「登山した」ところにあるため、いつだって登校するのは少し気が引けてしまう。また、1日中論文を読み続けるのも疲れてしまう。そんな中、僕はこの1匹の老猫に会うのを楽しみに、独り黙々と米国の技術哲学者を理解しようと努めたものだ。僕にとって、彼女は「気ままさ」の象徴だった。僕自身があるタイミングから持つことができなくなった気ままさを、彼女は呆れるほど簡単に、その優美な振る舞いと(野良の割に)艶やかな毛並みでもって描き出した。人は誰かに、何かに託したがるものだ。僕は彼女に、失われた自身の一部を見出そうとしていたのかもしれない。

 

 僕は彼女を「ゴメス」とは呼ばなかった。「呼ばなかった」とあえて書くのは、名前は第三者が当人(当猫)に勝手に好き勝手与えるものだから、第三者は好きに呼べばいいし、当人は呼ばれ方が気に入らなければ異議を唱えればよいと信じるからだ(しかも、猫はどう呼ばれたって怒らないだろう)。大学の裏山には、実はあまり知られていなかったが、もう一匹黒猫が住み着いていた。東京出身の学部1年生からの友人は、その猫を「シブヤ」と呼んでいた。僕はこの友人への幼稚な対抗心から、茶トラの老猫を「ロンドン」と呼ぶことにした。だって、ロンドンの方が渋谷より大きな都市だろう? ただ、東京に移住した今となっては、渋谷もロンドンも一概にどちらが大きいとは言い切れないような気もする。


 いずれにせよ、僕はこの茶トラの猫(美しきロンドン!)に大きな興味を持った。それまでペットも飼わず、動物に触れる機会が少なかった僕にとって、彼女を眺め、彼女に触れるのは新鮮な経験だった。冬になると会館で勤務する初老の職員の方が、山の寒さを気にして彼女を夜中は家に連れて帰った。そんな季節、日中に初めて彼女が僕の膝に乗ったことがある(きっと、愛着からではなく、寒かったんだろう)。膝の上で眠り、呼吸に体が震えていた。近くで見ると、彼女の耳の中はできものでボロボロになり、ベンチを照らす陽だまりの中で毛の節々は白く光っていた。そこには、命の、そして彼女の20年の「猫生」の重みが確かにあった。


 ある日、いつものように会館の傍に行くと、初老の大学職員に話しかけられた。話を聞くと、まさにその方が、前述のように(長年)彼女の世話をしてきたという。彼はボテッとした古いシルバーの車で彼女を「送り迎え」していた。だから、会館へ続く階段の前に車が(不法に)駐車されているのを見ると、彼女の「出勤」を知ることができた。僕は彼にこの老猫の生い立ちを聞いた。曰く、猫はもともと、県内北部の乗馬クラブにいたが、ある時期に大学の乗馬部に移住してきた。そこで、同じく乗馬部で飼われていた犬と、乗馬クラブの治安を見守っていた(素敵な話だ)。ただ、その一代目の犬が亡くなった後、二代目の犬とどうもそりが合わず、現在の会館横に避難してきた。そして、それから10年ほどが経ち現在に至るという。


 もともと僕は、彼や、猫を溺愛する工学部の学生らの協力を借りて、卒業論文を提出した後に、彼女についてのルポルタージュを書こうと思っていた。ただ、東京への引っ越しや別れの挨拶回りに思ったよりも時間がかかり、結局この案は実現されなかった。この工学部の学生らが彼女をまとめたTwitterアカウントを運営していたし、新参の僕が深入りすることもないと思ったのも理由の一つだ。僕が在学中の2月にはNHKの番組で彼女が取り上げられた。工学部の学生の努力の甲斐もあり、インターネット上でも彼女の認知度は高まり続けているように思われた。彼女が生涯獲得する「猫缶」量は、ますます増え続けるだろう。そんな風に安心しながら、東京で現在の職に着いた後も僕は、動向をしばしば観察していた。


 そんな中、2022年8月9日の火曜日、訃報が届いた。長寿で体が弱っている中、暑さで体調を崩し、午前10:00頃に彼女は亡くなったそうだ。命日までの数週間は、食事を食べるのにも苦労し、点滴を打っていたという。次の日には遺体は火葬され、遺灰は骨壺に収められた。現在、彼女が生涯の多くを過ごした例の「ささくれだったベンチ」には、骨壺と花が置かれているという。あまりにもあっけない幕切れだ。昨年に、3年以上植物状態だった祖父が急遽亡くなった際にも僕はそう思った記憶がある。肉体という、数十年の生の証明はいとも簡単に焼き切れ、陶器の壺に収められるとリアリティがすっかり抜け落ちてしまう。実際、僕は祖父がこと切れる瞬間にほんの5分の差で立ち会うことができなかったが、体につなぎ留められた計器が不可避の死を示していても、目の前の擦り切れた肉体に僕の心は命を感じようとしていた。今回、彼女の葬儀は前述の職員の方と工学部の学生らで執り行ったそうだ。彼らもまた、火葬に立ち会った当人として、そして僕よりも長く彼女に寄り添ったものとして、近い種類の悲しみを感じているのではないかと思い、痛切な同情の念を覚えずにはいられない。


 そして、彼女をこれまで気に掛けることのあったすべての人々が、形は違えど、彼女の死にそれぞれの思いを抱えているだろう。だが、肉体は朽ちても、彼女は皆の心の中に生き続ける。あまりにも陳腐な表現だろうか? けれども、それがきっと僕らにできる全てだ。20代中盤に差し掛かる今、僕はこんな風に思う。かつて、「集合的記憶」について論じたフランスの社会学者、M・アルバックスは、空間と記憶の関係について次のように述べた。

 

「ある集団が占める場所は、図を自由に書いたり消したりができる黒板のようなものではない。黒板に書かれた像は、そこにかつて書かれていたものを思い出すことはできない。黒板は、そこに以前書かれたものを、全く気にしていないのであり、新たな図を自由にそこに書き加えることが可能である。他方で、場所と集団は、それまでの他者の痕跡を受け取っている。それ故、その集団が経た各段階は、空間的な言葉に翻訳することができ、集団の占める場所は、これらの言葉全ての接続点に他ならない。この場所の全ての側面・詳細は、その集団に所属する成員にしかわからないような意味を持っている。なぜなら、その場所を構成するあらゆる部分が、彼らの社会が持つ生の構造の(あるいは、少なくとも、そこに最も安定して存在するものの)様々な側面に対応するからである。」(M. Halbwacks. 1950. ‘Space and the Collective Memory’, The Collecttive Memory. p. 2. Available at: http://web.mit.edu/allanmc/www/hawlbachsspace.pdf (Accessed: 17th, August, 2022))

 

 この理解に沿うならば、僕らはこれからも、会館前の例のベンチを見るたびに、かつてそこに横柄に、しかし最も愛らしく寝転がっていた一匹の老猫をきっと思い出すのだろう。そして、うまく思い出せるときもうまく思い出せない時も、彼女が生前のように気まぐれに姿を現すようで、どこか納得がいくのではないか。「猫よ永遠なれ。ただし、その気ままさでもって。」僕は彼女の死に動揺しながらも、彼女の一人のフォロワーとして、このように願わずにはいられない。


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