リーファトロジーの哲学 / Philosophy of Lifatology

美しき曲々の和訳、遺書としての。時に考察

笑う時計

言葉を纏え(2/ )


 長い坂道を登りきると家があった。二階のベランダからは遠く、町と海が見えた。私は、物心ついた時には既に、この母方の神戸の実家に住んでいた。この家は、少し離れた二軒の住宅を、渡り廊下で無理やりに繋げた奇妙なもので、片方には祖父母二人が、もう片方には母、三歳上の兄、私の三人が住んでいた。事実をかなり単純化して言うなら、我々三人は居候の身であった。私が三歳の頃、自分の娘が突然帰ってくると知った祖父母が、数件隣の家を太っ腹にも買い足し、その間に廊下を敷いたのである。廊下は左右両方が全てガラス戸になっていて、外の様子を見ることができた。北側の花壇には、夏になるとヘチマやヒマワリが茂った。南側は小石を敷き詰めた小さな庭だった。夜が来ると廊下は真っ暗になった。電気をつけると、ガラス戸に自分の姿が映り、外はべた塗の黒になった。あたかも、闇夜の中にポツンと一本、道が走ったようだった。幼い頃、私はこの夜の廊下が恐ろしくて仕方がなかった。渡るたびにいつも、連れ去られぬよう、踏み外さないよう、下を向いて走り抜けていたと記憶している。

 

 二軒の家は表札もそれぞれに違っていて、祖父母側には母の旧姓が、もう片方には新姓がかかっていた。とはいえ、実態としては、五人が一つ屋根の下に暮らしていたと言ってよいだろう。我々居候三人は、テレビを見るのも睡眠をとるのも、生活の大半の時間を「新姓の家」で過ごした。だが、入浴や食事は全て「旧姓の家」で行われた。祖母は大変力強い人で、家を切り盛りし、風呂や食事の指揮を執るのが好きであった。同時に、芸術や文化に大きな理解を示し、自分で花瓶に花を活けたりボーンチャイナカップで紅茶を飲んだり、品格のある女性でもあった。ただ、彼女は決して小さくはない強迫観念を持つ人でもあって、流行りものや俗物に対しては常に厳しい態度をとっていた。祖母はしきりにこう言っていた。家族で食卓を囲む時が、何よりも幸せであると。その言葉でもって彼女は、幸福を素描したのではなく、そのあるべき姿を皆に言い聞かせようとしていたのではないかと思う。食事場の真ん中には、五人には少し大きな楕円形のテーブルが置いてあって、ベランダに面した一番端が私の指定席であった。そこに座って室内を見渡すと、左に旧型のテレビと大きなカップボードが、右の窓際に気の利いた花瓶が、向こうの壁には少々不気味な人物画があった。後ろから日が差し込むと、ニス塗りの木の床が白く光り、無数の細かな傷が模様のように浮かび上がった。

 

 私は昔から、この高級な自席に座り、「家族団欒の」食事をするのが苦手で仕方がなかった。そこにおいては、食事は常に美味しいものでなければならず、学校での一日は子供らしく陽気なものでなければならない。迂闊なことを口にしようものなら、卓を囲む誰かが「幼く無知な」私に苦言を漏らし、食事が済むまで重苦しい空気に耐えねばならなかった。当時の私の目には、厳かな食器も、活けられた花々も、部屋中の全てがわざとらしく見えた。キッチンまで自分で醤油瓶を取りに行くと可愛げがないと思われるだろうか? ニュース以外のテレビ番組を見ると教養がないと思われるだろうか? 自分の一挙手一投足に神経を張り巡らせないといけなかった。この予定調和の食卓には、常に潜在的な緊張が満ちていた。

 

 そういうわけで、私はいつも、学校の課題が多く出されただのなんだのと理由を付けて、そそくさと食事をすませ、新姓の家に戻ろうとしたものである。ただ、そちらはそちらで異なる問題が満ちていた。私が中学に入る頃までは、我々居候三人の生活は、基本的に八畳程の和室一部屋で営まれていた。部屋にはごくごく小さなブラウン管のテレビと、物を収納する棚がいくつかあるだけだった。隣には兄弟の勉強用の小部屋があった。夜には、押し入れから出した布団を三つ、川の字に敷き眠った。このような閉鎖的な空間には当然、それぞれのプライバシーなどはあるべくもなく、抑圧的な雰囲気が満ちるのも容易い。私の母はたいそう立派な人で、ほとんど女手一人で、我々兄弟を最後には国立の大学に入学させた。その教育の手腕は、今となっては私自身にとっても鮮やかなもので、私はこれに深く感謝している。だが、同時に、私は彼女の情緒の不安定さには苦言を呈さざるを得ない。母は夜の七時頃に仕事から帰ると、いつも仕事の愚痴を我々兄弟に話した。他方で、子供というのはおしなべて親の承認をねだり、あれこれと話したがるものだが、母は親身に話を聞くことは少なく、聞いたとしても眉をしかめることが多かった。何か彼女の気に触れることをすれば、階段下にあった真っ暗な装束入れに、無理やりに閉じ込められそうになることもあった。「仕事で疲れてるからやめて。」それが我々を黙らせる手頃な言葉であった。

 

 想像に容易いように、その精神の陰りは、彼女の母、すなわち我が祖母によるところが大きい。母は幼少の頃から、「貞操」や「世間体」をひどく気にする、いかにも古い教育に晒された。母はそれが自身に与えた影響に自覚的であったので、祖母を肉親として愛する一方で、半分は深く憎んでいたのではないかと思う。そして、自身の子供、すなわち我々兄弟に対して、同様の柵を課さないように念入りに配慮しようとしていた。しかしながら、その試みは失敗したと私は言わざるを得ない。十五歳かそこらになるまで、私は母に対して純粋な畏怖の念を頂いていた。母が在宅している時に家の二階に上がることは許されなかった。なぜなら、床のきしむ音が一階の母を苛立たせるからである。バラエティ番組を見ることも許されなかった。「馬鹿馬鹿しい」からである。おもちゃを欲しがるのも憚られた。「わがまま」だからである。何よりも居心地が悪かったのは、彼女が誰かの影口を言う時である。会社の上司達は愚鈍な奴らであったし、祖母も口うるさい死に損ないであった。その語り口調を見ると、私に対してもどこかで、彼女の矛先が向いていたのは明らかだった。そして、それがひどく悲しかった。

 

 もちろん、そのような態度には大きな同情の余地がある。結局、彼女は不幸な人であった。私立の女子校に中高大と通わされ、若さという特権を人並みに享受することもなく近くの地銀に入社した。そこで母は、私の父に出会った。男性経験を積む機会が少なかったこともあって、母は出会ってすぐに父と付き合い始め、早々に結婚した。結婚後は、実家から十分ほどのアパートの一室で暮らした。結婚してすぐに母は兄を授かり、三人で暮らし始めた。三人であの大震災も乗り越えた。その暮らしは母にとってきっと、それまでの人生以上にかけがえのないものであったのではないかと私は推察する。

 

 ただ、不幸な人は、不幸を知らないうちに身に付けてしまうものである。父が仕事に出ている間、母が家の番をしていると、ポストに見知らぬハガキが届いた。それは消費者金融からの督促状であった。母は父に尋ねた。父はしらを切った。母は探偵事務所に調査を依頼した。すると一千万円の借金が明らかになった。ギャンブルや女遊びに使ったものであるのは明らかであった。ただ、意外にも、結局この借金は父の実家によって返済され、事態は事なきを得た。母は父を寛大にも許し、そこから数年の時が流れることになる。その最中、彼らは二人目の子を、すなわちこの文章を書いている私を授かった。夫婦は嵐を抜け、平穏な凪へ進んだかのように思われた。

 

 もう一度、一千万円の借金が見つかった。この裏切りが母に突き付けた苦しみを思うと、私は痛切な同情の念を禁じ得ない。母は離婚の手続きを済ませ、アパートを飛び出し、実家に戻った。当時、女性が再就職をするのは今よりも困難であったようで、何度も応募を断られ、アルバイトを経由し、失業手当にもすがりながらやっとの末、ある教育会社の派遣社員として職を得た。その頃、私は保育所に通っていた年頃だったが、ある晩、二十二時かそこらに母が目を覚まし、同じく目を覚ました私に気づき、地下鉄で海沿いのオフィスビルに連れて行ってもらったのを覚えている。私は突然の「冒険」にただ心を躍らせていたが、あの母の姿は、仕事と子育てを両立しようとするものに他ならなかったのだと今になって思う。結局、母は、兄と私が大学(院)を卒業するまでに三つの会社で、心身をすり減らしながら、生きるための金を稼ぎ続けた。

 

 このような事情があるので、母の時に粗暴な態度を、不適切なものだとして一蹴することは難しいように思える。そう、人は完璧にはなれない。そしてあらゆる母もそうなのである。他方で、父についても私は同じことが言えると私は思う。父は上のように、社会的に見ればどうしようもない男である。実際、私はこの点について、彼を恨んでいないというと大きな嘘になる。同時に、私にとって父は、母以上の畏怖の対象であった。彼は攻撃的なところがある人で、店員の不手際や、我々兄弟の子供ながらの粗相に対して激怒することが度々あった。首をつかんだり、マイクを腹に投げつけたりと、暴力を伴うことも少なくはなかった。しかし、離婚後も、我々三人は頻繁に父と交流があった。月に一回は近くの居酒屋で食事をしたし、年に一回はハーバーランドから出ている遊覧船に乗り写真を撮った。父が私を自転車の後ろに乗せて、車掌のふりをして町を巡ってくれた時、私はしがみついた背中の煙草の香りに安心したものだ。その異常に権威的な部分に目を瞑れば、父は気さくで人付き合いのうまい人であった。実際彼は、現在は新聞記者としてうまく働いているし、離婚後一度も、我々への生活費を支払い損ねることはなかったのである。

 

 だが、子供が、そのような事情を理解できるはずがないのもまた真実である。我々兄弟は、この決して自然とは言えない家庭環境の中で、気づかぬうちにどんどんと軋み、歪んでいった。問題が表面化するようになったのは、我々が小学校に入学した頃のことである。振り返ってみれば、私は、両親の性向をしっかりと引き継ぎ、他人の言動に常にビクビクしているのに、ふとしたことで攻撃的な態度を示す、可愛げのない子供であったに違いない。テレビ番組や流行りの曲にも疎く、人との距離感もうまく測れない、退屈な子供であったに違いない。そして、このような子供は、クラスでいじめられ、教師の助けも得られないというのが世の常である。六年間ずっと、私はいつも誰かに名前や容姿や発言をなじられ、惨めな思いをしながら下校しなければならなかった。仲が良かったと思っていた同級生や先輩に、複数人でリンチされたこともある。当時の私に何ができたというのだろう? よその子供と遊ぶのを低学年の頃は禁じられていたため、いざとなっても人とのつるみ方がわからなかった。うちには著作権切れの古いカートゥーンアニメーションのテープしかなかったから、最新のゲームソフトの話しにはついていけなかった。旅行に行く金も車もなかったから、お古の自転車で行ける圏内が私の世界の全てだった。そして、それらは全て、母が必死に我々兄弟のために準備をしたものであった。

 

 今となっては、私の兄も似たような状況にずっと置かれていたのだろうと思う。兄は自分を守るために、次第に暴力を選ぶようになった。彼は度々癇癪を起し、買ってもらったばかりのゲーム機を壁に投げつけたり、障子を殴って穴を空けたり、家族の誰かを怒鳴りつけたりするようになった。これはおそらく学校においても同様だったのだろうと思う。ある時、兄の同級生の一人が厭味ったらしい笑みを浮かべながら、兄が図工の最中に怒り、液体のりか何かをその同級生に投げつけたという話を聞かされたことがある。当時の私は、それを皮肉と理解するにはあまりにも幼かった。私はいつも、兄に滅茶苦茶にされたグラスなり壁なりを見るとやるせない気持ちになった。それらは「死んで」しまったように思えた。

 

 小学校の頃は、私は兄を心底尊敬していた。よくあるごっこ遊びで彼が思いつく設定は私よりもずっと巧妙であるし、勉強もできた。愛想のよい子供であったから、親戚一同が介している場でも気に入られ、ずっと大人に見えた。ただ、中学に入る頃には、私は彼を忌嫌うようになっていた。どうしても私は、薄皮一枚剥いだ先にある生々しい暴力性を知っているため、彼が普段陽気さを取り繕うのが心底気持ち悪かったのである。そして、彼自身、私が彼を尊敬していないことが気に入らなかったのだろうと思う。いつか、例の和室で些細なことから彼と大喧嘩になったことがある。彼は私の腹を蹴りつけた。私は使われていない二階の大広間に逃げ込み、母の説得も無視して、和室には決して戻らないと訴え続けた。最後には、和室に三人が寝るのはやめにして、私には新姓の家に、兄には旧姓の家に自室が割り当てられることになった。

 

 私はこの文章を書いている今でも、兄を偏狭で退屈な男だと正直思っている。大人になった今でも、人に手を上げた知らせを度々聞くし、現在の会社でうまくやれないのも当然だと思っている。私から兄を食事に誘ったことも一度もない。ただ、私はいつもこう考えざるを得ない。彼と同じ道を歩んだ可能性は存分にあったのではないだろうかと。我々兄弟は、形は違えど、ほとんど同じ惨めさをこれまでに経験してきていると思う。金がない惨めさ、苛められる惨めさ、容姿に自信が持てない惨めさ、人づきあいがうまくいかない惨めさ、そして誰もうまく愛せず、愛されることもない惨めさ。結局のところ、彼は自分の両親を見習い、自らを暴力によって守ろうとした。そして、自分を守るというのは、子供一人が背負うにはあまりにも大きな重荷だろう。暴力は彼にとってSOSのサインだった。彼が傷つき悲しむとき、それを受け止める誰かがいつもいなかった。私が同様の状況で暴力に訴えかけなかったのは、兄の不名誉な背中を常に見続けてきたからである。彼は私の代わりに悪役になり続けているのではないか? そんな風に、奇妙な運命のねじれについて、考えざるを得ない時がある。

 

 唯一、我々兄弟を否定も矯正もしなかった者がいるとすれば、それは祖父である。その包容力や偏見の少なさは、彼が生涯、文理を問わずに広く学び続ける教養人であったことに起因しているのだと思う。実際、彼は国立の医学部を卒業し、薬剤師として十数年働いた後、市役所の職員として長年神戸の町に奉公し続けた。大学の特任教授を兼任していたこともあった。家のガレージの壁は、プルーストだの百科事典だの、祖父の幅広い興味関心によって埋め尽くされていた。ただ、不思議と、祖父と何かを熱心に話し込んだ記憶は一つもない。旧式のパソコンでソリティアをプレイさせてもらった。帰り道に乗れるよう、小学校の迎えに自転車を持ってきてくれた。家族写真を取る際はいつも、一眼レフを構える祖父を見つめた。どの場面を切り取っても、その寡黙な姿が浮かぶ。私が高校生になる頃には、祖父はほとんどアルコール中毒者のようになり、毎日口実を作っては、近所のスーパーに酒を買いに出かけていた。そんな姿に祖母と母が苦言を呈し、祖父を愚鈍な老人としてぞんざいに扱う際には、私は心底彼女らに腹が立ち、よく口論をしたものである。ただ、家の近くで転んで頭を打ち、数カ月昏睡状態となった末、遂に息絶えた時、私は悲しみの涙は流さなかった。白樺の棺桶に収まる祖父の装束姿。それが示す死は、とても自然なものに思えた。嫌悪や恨みの念を抱いたことはただの一つもないが、今になっても、私が祖父に対してどのような思いを抱いていたのかは、ぼんやりとしていてよくわからない。

 

 私はかなり早い時期から、家族の誰にも心を開かない子供に、自らなろうとしていた。私は自転車に乗るのが好きだった。風を感じながら海沿いを走るのが好きだった。ギアをうまく変えて坂道を登り切ると達成感があった。安物の清涼飲料水で喉を潤すのが気持ちよかった。校区の外まで出て、数駅先まで遠出する時は胸が高鳴った。誰にも拠らず、自分の力で生きていきたかった。けれども、夕暮れが町を橙色に染めると、いつも私は家に帰らないといけなかった。どこか遠くを求める心は、いつも中途半端にくすぶったままだった。

 

 一度、小学校の高学年の頃に、家出を試みたことがある。学校が終わり塾に行く時間、通塾用のリュックに、お年玉にもらった五千円、懐中電灯、本など、必要だと思ったものを詰め込み、祖母に嘘の笑顔を浮かべて家を出た。少し離れた電車駅に着くまで、家族と当時好きだった同級生のことを考えた。ずっと、「もう十分に迷惑はかけた」と心の中で繰り返し続けていた気がする。行先は何処でもよかった。だから、父とよく行った市民プールを思い出し、なんとなく数駅先の海沿いの町に向かった。だが、結局道に迷い、プールは見つからなかった。気が付くと辺りは暗くなっていた。近くのスーパーに逃げ込み、おにぎりとハムか何かを買った。たいして美味しいとも思わなかった。怖くなった。

 

 今思えば、この家出の試みはあまりにも無計画である。何の後ろ盾もない子供が、金もなく生きていけるはずがないのである。結局、私はすぐに踵を返し、道を歩く会社員の集団に「塾帰りに道に迷った」と嘘をついて、駅までの道を教えてもらった。町に戻り、坂を上り家の前につくと、祖母が心配そうにあたりを見渡していた。私の姿を見つけたとき、不安げに私の名前を呼び、抱いて家に迎え入れてくれた。祖母も母も泣いていた。警察に捜査を取り下げるよう電話をしていた。夜ご飯はおでんだった。和室の部屋の隅で、壁を見ながら一人で食べた。涙が出てきた。ただ、これは、家族の温かさへの切望からくる涙ではなかったと思う。それは、自身の為したことに対する、周りの反応と自身の評価の食い違いからくる混乱の涙だった。正直、なぜ母らが泣いているのか、私は理解することができなかった。包み込もうとするその愛情が生暖かくて煩わしかった。

 

 私が家族に対して抱いている思いは、好意とか嫌悪とはっきり言い切るにはあまりにもアンビバレントなものである。ただ、いずれにせよ、私は幼少の頃に、旧姓にも新姓にも自らのアイデンティティを築き上げることができなかったのだと思う。一方で旧姓は、過度に保守的で抑圧的であった。他方で新姓は、乱暴で軽率であった。私は今も、あの長く不気味な廊下で、どちらも選び取れずに独り立ち尽くしている。ずっと、バラバラになりそうだった。だから、自分自身を統合し、確固たる誇りを抱くために、私は自治を達成する必要があった。現在に至るまで、ずっと奇妙な大人び方をしているのは、そんな卑屈な自律心の現れなのだろう。ただ、自治を達成するには、それを裏付ける何かが必要だった――

 

 今、私は東京で働いている。神戸には滅多なことが無いと帰らない。

 

 時計が笑っている。


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