リーファトロジーの哲学 / Philosophy of Lifatology

美しき曲々の和訳、遺書としての。時に考察

あなたが居てくれれば心強かったのに。

言葉を纏え(3/ )


 私はここで、事実この世に存在していると思われる、「責任」という社会的形式の一形態について、哲学・社会学が私に与えてくれた示唆を用いて基礎づけを行いたい。これは学術的論文ではない。そして、私は規範的主張を行うつもりは毛頭ない。

 

 我々は皆、ある哲学者に習って言うならば、世界に投げ入れられている。この「投げ入れる」という動詞は、我々の生に常に付きまとう理不尽さを的確に表している。生まれ落ちる家庭は選ぶことはできない。天変地異に異議申し立てはできない。全てを因果や合理性によって支配しようとするような実証主義的な態度は、近代が生んだ神話に過ぎない。この「被投性」は、一方で運命への悲観主義を生む。すなわち、もしも本当に、眼前に展開される生に、自らが関与する余地が少しもないのならば、それは意義を欠いた偶然の運動に還元されてしまう。他方で、自身が投げ入れられた世界を積極的に受け入れ、生を再定義しようとする試みもある。そこにおいては、被投性(並びに、その終末に待ち構える不可避の死)への覚悟や、諸々の選択を行う意思の重要性が強調され、人間は運命の奴隷ではなくむしろ主人として位置づけられる。


 これら二つの対極する論法は、様々な濃淡をとってしばしば耳にするところであるが、存在の被投性を個人の問題に還元しすぎるあまり、実際に人間が置かれる社会的形式を無視している。この社会的形式を、私はここで責任と呼びたい。責任とは、他者との具体的な社会的関係の下に初めて生まれる、個人に対するある行動への期待である。その行動とは、彼がおかれた環境――彼の思考の主体たる意識が対峙する全て――を彼・彼女自身が「引き受ける(undertake)」ことである。環境は、例えば彼の住む家といった単純なものから、極端な場合、彼の身体自身も含みうる。なぜなら、意識は常に、それ以外の全ての存在の底に眠る「馴染みのなさ(unfamiliarity)」を認識し得るからである。あるいは、彼自身の意識すら、それ自身が再帰的に認識する他者とも言えるかもしれない。この場合、意識が誇る主体性(他者性の対義語という意味での)は、無限の自己認知の彼方に消えてしまう(つまり、意識の他者性を思考する意識は同様に他者的であり、そう思考する意識はさらに他者的であり、そう思考する…)。


 意識が認識するその環境の他者性は、日常的な経験からも把握できる。例えば、この文章をタイプする私の手が「私自身のものである」という必然性を、意識は究極には認識し得ない。自身が日本出身であるという事実(と呼ばれるもの)の必然性を認識し得ない。例の「自分は数秒前に生まれたのではないか」という極端な思考実験は、その真偽ではなく、我々の思考(及びその主体である意識)が、存在の被投性故に抱く限界をほのめかしているのである。すなわち、我々は、客観主義的な見方をすれば「生まれた際に」世界に投げ込まれるのではあるが、意識が捉えることの出来る次元においては(あるいは、世界が意識に対して現象する次元においては)、時間を構成する「刹那ごと」に投げ込まれているのである(無論、そのことを意識はしばしば忘却している)。


 我々の置かれた環境が意識にとって何の必然性も示さないなら、責任の概念はまさに解体されてしまうのか? 否、実際には、全てが偶然的なものとして平等に現象し得るが故に、責任の概念は具体的な社会秩序を保全するために登場しなければならない。実は、現象の偶然性を責任の解体と同一視するような議論は、因果論と責任論を同一視している。すなわち、このような見解においては、ある事象の原因と見なされるものに、当人の意志や行動が関与していないのならば、当人はその事象について免責される。ただ、実際に人間が置かれる「具体的な」社会的諸関係・場面において、そのような論法が通じる場面がどれほどあるのか、私は疑問である。例えば、内閣(実際にはそれを指揮する総理大臣)が、自然災害で破壊された町の復旧にまごつくと、それがいかに人知を超えたものであろうと、内閣はその「責任」を負わなければならない。あるいは、より日常的には、幼少に家庭内暴力を受けていた人物が、いかにも権威的な他者の前でオドオドと振る舞う時、彼・彼女は自身の過去を語り弁明する機会をいちいち与えられるだろうか? これらの事例の背後に存在する論理は至極単純である。すなわち、「他に誰が責任をとるのか?」。


 このように、純粋な責任の概念は、因果関係ではなく、それ自身(すなわち、「誰の」責任か)を根拠とする。そして、実際には我々は、冒頭に書いたようなやり方で生を積極的に受け入れるのではなく、責任という形式の中で、眼前に展開される生を受け入れ「ざる」を得ない状況にある。その限りにおいて、障害は、性別は、人種は「自己責任」なのである。もちろん、いつの日も、この冷たい論理に対抗し得る勢力は登場し得る(例えば、昨今のアファーマティブ・アクションの動向)。この意味で、責任の次元は、大いに社会的闘争・合意の次元である。ただ、この対抗勢力の存在が、責任の論理「自体」が社会的に構築されるものであることを示すとは私は思わない。人間が自然に(近代的な言い方をするなら)「弄ばれていた」時代、神話や宗教が人々の肩の荷を下ろそうとした。現代では、障害者や性的マイノリティは、彼らが抱える「問題」の根拠が医学的に説明されることによって、社会に統合されようとしている。思うに、無慈悲な責任の論理を和らげるには、どのような形であろうと、世界を説明する「物語」が必要である。そして、生きること自体が生み出す理不尽さを人々が互いに押し付け合うのは、あくまでこの物語の次元においてであるように思われるのである。 


 上の「論文もどき」は、3年前、まだ大学生だったころに書いた文章を元にしている。今回、遺書の中に重要な一部分として組み入れるにあたり、少々の修正・加筆を行った。俺は今、俺自身がこれから辿るであろう道を覚悟しようとする中で、「物語にすらなることのできないものども」について思いを巡らせざるを得ない。物語となり、公共的な議論・闘争の場に上がるには、出来る限り多くの人々の理解や承認を得なければならない。近現代において数は重要である。なぜなら、人間一人一人は「生まれながらにして平等」だからである。


 俺はきっと物語にはなれないのだろうと思う。このだだっ広い世界で、俺だけが独りぼっちだ。出来損ないだ。生きるなら、俺は俺の問題に対する責任を全て飲み込み、吐き気に苛まれながら進まないといけない。普通の若者らしく、流行りのヘアスタイルを試したり、友人を気軽に旅行に誘ったり、恋人と記念日を祝ったりしてみたかった。せめて、全部俺のせいだとしても、誰かに打ち明けて、分かち合ってみたかった。けど、誰かに迷惑をかける資格も俺にはない。逃げ場がない。もうずっと、胸がパンクしたような気分で、何をしようにも心がついてこない。

 

 あなたが居てくれれば心強かったのに。


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